空母瑞鶴の進水式の記念品より〜〜^^  12・10

父の遺品の焼き物のペン皿〜〜^^
小さい頃からずっと父の机にあったので「小汚いペン皿やなぁ〜」ってくらいには認識してた。笑
裏を見たら「○鶴進水記念」「昭和十四年十一月○○」「株式会社 川崎造船所」とかろうじて読める。
昭和14年ってことは、1939年〜〜私の生まれる10年前だ。
父は大正9年(1920年)生まれだからこの記念品のペン皿は父が海軍衛生兵に入った頃の19歳の時ということらしい。
「○鶴」ってなんだろう? 船の名前?
調べたら「空母 瑞鶴(ずいかく)」の進水記念品として配られた物らしい。
「空母瑞鶴」ってなんだろ?
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<瑞鶴 (空母)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
瑞鶴
1941年9月25日、神戸沖にて(竣工直後)
1941年9月25日、神戸沖にて(竣工直後)
基本情報
建造所 川崎造船所(川崎重工業)艦船工場[1]
運用者 大日本帝国海軍
艦種 航空母艦[2]
級名 翔鶴型
建造費 予算 84,496,983円[3]
母港 呉[4]
艦歴
計画 昭和12年度(1937年)、③計画[5]
起工 1938年5月25日[1]
進水 1939年11月27日[1]
竣工 1941年9月25日[1]
最期 1944年10月25日沈没
北緯19度20分 東経125度51分座標: 北緯19度20分 東経125度51分
除籍 1945年8月31日[6]
要目(特記無きは計画[7])
基準排水量 25,675英トン[8]
公試排水量 29,800トン[8]
満載排水量 32,105.1トン[9]
全長 257.50m[8]
水線長 250.00m[8]
垂線間長 238.00m[8]
水線幅 26.00m[8]
深さ 23.00m(飛行甲板まで)[8]
飛行甲板 長さ:242.2m x 幅:29.0m[10]
エレベーター3基[11]
吃水 公試平均 8.87m[8]
満載平均 9.32m[8]
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付[10])8基[12]
主機 艦本式タービン(高中低圧[10])4基[12]
推進 4軸[12]
出力 160,000hp[8]
速力 計画:34.0kt[8]
1944年5月調査:34.23kt[13]
燃料 計画:重油 5,000トン[8]
1944年5月調査:重油 5,069トン[13]
航続距離 計画:9,700カイリ / 18ノット[8]
1944年5月調査:11,798カイリ / 18ノット[13]
乗員 計画乗員:1,660名[14]
最終時:1,712名[要出典]
搭載能力 九一式魚雷 45本[15]
爆弾 800kg90個、250kg306個、60kg540個[16]
飛行機用軽質油 745トン[9]
兵装
新造時
40口径12.7cm連装高角砲8基[17]
25mm3連装機銃12基[17]
爆雷6個[15]
最終時[18]
40口径12.7cm連装高角砲8基
25mm3連装機銃20基
25mm単装機銃36挺(推定)
12cm28連装噴進砲8基
搭載艇 12m内火艇3隻、12m内火ランチ3隻、8m内火ランチ1隻、9m救助挺2隻、6m通船1隻、13m特型運貨船2隻[11]
搭載機
計画:常用72機、補用12機[16]
1941年12月7日[19]
零式艦上戦闘機:18機
九九式艦上爆撃機27機
九七式艦上攻撃機:27機
最終時[要出典]
零式艦上戦闘機:28機
零戦戦闘爆撃機型:16機
彗星艦上爆撃機:11機
天山艦上攻撃機:14機
レーダー 1944年7月:21号電探2基、13号電探1基[18]
ソナー 仮称九一式四号探信儀1組(後日装備)[20]
零式水中聴音機2組(1944年7月に1組から2組へ増設)[21][22]
その他 着艦識別文字: ス[23]
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瑞鶴(ずいかく、ずゐかく、ズヰカク)は、大日本帝国海軍の航空母艦[24]。翔鶴型航空母艦の2番艦[25]。太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1944年(昭和19年)10月25日にエンガノ岬沖海戦で沈没。
艦名には翔鶴型の2番艦として翔鶴から踏襲された「鶴」に、めでたいという意味の「瑞」をあてた。
瑞鶴は、太平洋戦争で、真珠湾攻撃、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦等の海戦に参加し、同型艦の翔鶴と共に日本海軍の主力艦として活躍したが[26]、翔鶴と対照的に、マリアナ沖海戦まで一発も被弾しなかった幸運艦であった[27][28]。
瑞鶴は翔鶴とともに日本の軍艦では初の球状艦首を採用して高速化が図られ、防御力も炸薬450キロの魚雷の直撃にも耐えられるように設計された[29]。
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戦後生まれの私にはほとんど知らないことばかり。
戦争の悲惨さもドラマやニュースなどで知るだけの平和な時代を過ごしてた。
父は子供の頃に柿木から落ちて腕を骨折、ど田舎の医師が曲がってくっつけたので「気をつけ!」すると腕がまっすぐにならないのと
これも小さい頃に右手の中指(?)の先をを鎌で切断して、田舎の医師がちょっと上向にくっつけたので銃の引き金が引けなかったために、徴兵検査で海軍の衛生兵に行けと命じられたそうだ。
酒の席ではいつもこの腕と指のお陰で命が救われたんや〜っとよく皆を笑わせる人だった。
いつも楽しいことばかり話す父の口からは戦争の悲惨な状況は聞かされたことはなかった。
1939年(昭和14年)11月27日の瑞鶴の進水式に海軍や参列者に記念品として配られたのがこのペン皿らしい。
19歳の一兵卒の父にまで配られたのだから大盤振る舞いだったのかな〜
当時の父は広島の呉の海軍病院にいたと聞いたことがある。
その後別府の海軍病院に移動し、終戦は別府だったようだ。
毎年海軍病院の同窓会が開かれて必ず出席してた父だったが、85過ぎて認知症状が出てきて、同窓会もみんなが高齢で継続できなくなり最後の同窓会の連絡が来て。
新幹線からの乗り継ぎもあり、とても父一人では無理・・・欠席も考えたがこれが多分最後だし”付き添い”とし同行することを選択。
父との生まれて初めて”一泊二日のふたり旅”をした〜^^
海軍病院の同期の看護婦さんたちと楽しそうに思い出話をする父〜〜私の知らない父の一面を見た〜〜^^
出席にして、一緒についてきて本当によかった〜っと心から思った。
戦争の中で青春を過ごした人たちの結びつきは強い。
戦地から傷病兵となって帰ってきた人たちの心と身体を懸命に癒すために尽くされた人たち。
国に帰ることなく異国の地で散っていった若者たち。
一枚のペン皿から「空母瑞鶴」の歴史を読み、改めて「戦争」についてちゃんと向き合わないといけないな〜っと思った。
平和の中にどっぷりと浸かってしまってる今だからこそ・・・
そして何よりも、このペン皿が、すっかり忘れてた父との大切な思い出を思いだすきっかけをくれたことに感謝〜^^

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